5/30/2018

焼肉パーティー

約10年ぐらい一緒に働いた仲間が新しいチャレンジをするということで、知り合ったころにランチをしていた仲間たちと、焼肉ランチをした。

あの頃の話題とはまったくちがって、今はキャリアプラン、家、子育ての話題が多くなるところ。

久しぶりにゆっくり話すと、みんな考えているなという感想。自分としては、思考停止はダメだなというのは言えると思う。
例えばマンションの話。当時も買う、買わないトークをしたけれど、彼は購入組。あれから10年、購入時とほぼ同じ値段で売れるとのこと。簡単に言うと、10年分の家賃を儲けた形になる。

一方で私は、一旦は持たないと判断をしている。
しかし話を聞いていると、ライフスタイルに応じて買った場合がいいケースもきっとでてくるということに気づく。学んだことは、一旦判断したらその判断にしたがっていてもいいが、状況やゲームの変化に気づいて、判断した内容も再検討をしたほうがいいということ。

効率の観点でいうと、いつも再検討するというのは適切と思えないが、変化を捉えて、聖域なき再検討をする機会を持つというのは重要だと考えた。

とはいえ、何が正解か判断しにくい世の中。いろいろな決断のなかで、彼の今後の活躍に期待しつつ、私自身も頑張ろうと思った。

5/29/2018

送迎会

お仕事の仲間の新しい旅立ちを祝って、昨日は世界の山ちゃんでお食事会を。日頃、仕事の顔でしか話す機会のない仲間たちとも、「転職者はねぇ」というトークをしながら、いい刺激をもらった。

子供の頃は漠然と学校を卒業したら仕事をして、それがずっと続くんだって思っていた。実際社会に出てみると、そんなに一本道ではなく、自分のやりたいこと、生活のこと、パートナーのこと、すべてが絡み合って無数の決断ポイントがある。だからこそ決断ポイントを見過ごさず、チャレンジは大胆にいくことが必要なんだろう。

毎日の繰り返しに流されることなく、自分の中の変化点はどこかというのを意識することを大事にしよう。

5/28/2018

5月もそろそろ終わりですが

すでに5月が終わろうとしている。
最近はSakurakoがあまり遠出を希望しないので、休みの日は近くの公園で過ごす日々だ。いろんな時期があるので、それで十分だと思っている。

私の方は体調も日常も絶不調。本来はうまい具合にプランしていかなければならないし、自分の人生に対して優先度の低いものは放置していかなければならないんだけど、人の労力を奪う側も真剣に奪いにきているわけで、No dealを選択しても、簡単にはゲームを降りてはくれない。

それでもなお、優先度の軸足は自分の好奇心にむけるべきだと思っているので、強い意思を持って進めたいところ。

何かの記事を読んでいて、死ぬときに「もっと家族との時間を作ればよかった」「もっと自分のやりたいことに時間を割くべきだった」という人はいても、「もっと残業して(会社勤めの)仕事をすべきだった」という人はいないという記事を読んだ。
もっともだと思う。まだ死ぬときは意識しなくてもいいが、なりたかった自分はこれかどうかという評価は、常に持ち続けないといけないと思う。

と思いつつ、ちょっと遅めの一週間のスタート。

4/02/2018

2018年度スタート

新しい年度が始まった。
朝から新社会人・新入生のような雰囲気の人たちとすれ違って、とてもフレッシュな気持ちになることができた。私にとっても、転職して12年目のスタートとなった。

アメリカから帰ってきて、不思議と根拠もない自信にあふれていたが、異業種からの転職で、何度も価値観が塗り替えられる経験をさせてもらった。数年先はわからないという不確かを受け入れる態度を学んだが、やはり振り返ると、力をつけて置くことが、どんなときもベストプラクティスだなということに気が付いた。

いま、知や能力というのは、途端に二極化が進んでいると思う。私が学生だったころは、子供がとても多くて、得られる情報源は比較的似通っていた。ちょっと何かに詳しくなっても、googleもなければtwitterもなく、近所でちょっと詳しいぐらいのところから、出ていくすべを見つけるのがとても難しかった。

いまは確実にそういう時代ではない。興味をもてば、多くの場合、その道のプロと同じ道具を使い、同じ情報源で学ぶことができる。
その分、自分はまぁまぁいけるんじゃないかと思うまでの、ハードルは十分に上がっているともいえるはずだ。

自分より優秀な若者たちに、先輩のような顔はまったくできない。あまりそれ自身、いいとも思えない。年齢ではなくあらゆるアウトプットから学び、自分もアウトプットを出していく、それが必要なことだと。

週末に二日連続で桜の下で過ごし、ちょっとずつ考えた。春は毎年来るけど、いつもと同じ春にしないこと。何か前に向かっていくこと。2018年度のスタートを、新たな気持ちでやりたいと思う。

3/20/2018

作業的なもの

優先度の低い、それでいてやらないといけないタイプの作業というのはとても危険である。これらは時間がかかるが、自分の成長や面白さとは全く対局にある。恐ろしいことに、そういう作業をして、ある程度量が捌けると、ちょっとした満足感すら得てしまうことだ。

先週を振り返ってみると、そんな感じで一週間が過ぎた気がする。

何度も思い、何度も修正するのだが、今回も再度修正をかけるとする。学んだり、考えたりすることに時間を使う。生きていくうえで作業的なものを放棄することはできないが、それが後まわしになったからといって、誰が不幸になろうか。

新たな気持ちで、火曜日をスタート。

3/13/2018

いますること

寒さが和らいで、ホッと一息ついた今日この頃。
日曜日はSakurakoを連れて、映画しまじろう「まほうのしまのだいぼうけん」を見に行ってきた。しまじろうの映画は参加型だということで、どんなふうに参加できるのか、楽しみであった。
Sakurakoは、子供のころの私と違って、周りの様子をうかがわずタイミングよく反応ができていて、とても驚かされた。
飽きることなく、最後まで集中してみることができるほど成長していたことに、うれしく思った。

そしてホッとしながら、ちょっとずつ日常を振り返っている。Sakurakoの年少さん生活を観察しながら、Harunaの日々の暮らしをみながら、自分の中の優先順位がかわってきているんだなと感じている。例えば、これまでは仕事であれプライベートであれ、旅をして面白く感じていた心が、むしろ出張などは、子供たちの成長を間近でみることができない困った時間になった。いまは、家を離れて長い時間をすごすことが、それほどいいものではなくなってきている。

優先順位は、家庭の状況や自分の環境のなかで、こうも変わっていくんだということに気付かされている。いくつかのものは、諸条件がそろったときにしか、集中してやることができなくて、ないものねだりはできない。いっぽうで、目の前にある状況は、いつまでもあるわけではなくて、今、しっかりと取り組まないと、いつまでもは存在しないということがあると思う。

当たり前なんだけど、やっと腑に落ちてきた感じがする。では、何をいまなすべきなのか、そして、気づいたり背伸びをしたりすれば届く、後から見たら今なすべきことはなんなのか、そんなものを見つけたいと考えている。

2/01/2018

Paternity Leave

娘との楽しかった休暇もそろそろ終わりそうになってきた。二人目の娘、Harunaが生まれるということで、昨年のクリスマスが終わるころから休みがスタート。実際、Harunaには、まだ父がしてあげられることは少なく、Sakurakoとの休暇だったような気がする。

休みのスタートでSakurakoは風邪を引き、病院へ連れて行った。熱が出てしんどそうなのを見て、大いに心配した。幸いにもインフルエンザではなく、数日で落ち着いたが、恐る恐るの年末突入だった。

年末・年始は、これといってスペシャルではなかったが、それでも、幼稚園の年始の餅つきに備えて餅を食べる練習をしたり、近所の神社に初詣に行ったりと、よき2018年のスタートとなった。

年始は、Harunaがいつ生まれるのかワクワク状態のまま、Sakurakoの幼稚園の送り迎え担当をした。多くの親切なお母様方にも声をかけていただいて、毎日の状況を伝えるのが日課のような日々で、あらためて、良い環境の幼稚園に通わせられていることをうれしく思った。

そして、Harunaが生まれる日。Marinaが朝6:30ごろ支度をして病院に行った。10:30ごろには無事に生まれたメールをもらい、幼稚園が終わったSakurakoを連れて見舞いに行った。Sakurakoが生まれた産科病棟に、約4年ぶりに娘と二人来るとは不思議な感覚だった。Sakurakoが生まれた時、うれしくて仕事帰りにこの廊下を歩いて、毎日部屋へ訪問したのが懐かしくなった。

そのあと1週間は、Sakurakoとの二人暮らし。弁当を作って幼稚園にいって(実際は幼稚園が休園になって、弁当作りは1日だけだった)、迎えにいって、おやつを食べて、病院に行くと1日があっという間であった。

そしてMarina, Harunaの退院。初めての家族四人の暮らしを楽しみ中である。


この一連の出来事に備えて、しっかりと1ヶ月の休みをとった。父親がこうして1ヶ月の休みをとることはめずらしいかもしれないけれど、私にとっては、かけがえのない時間となった。生活のために働くということは非常に大事なことである一方で、自分の家族が、寂しい思いをせず、笑顔で1日にあったことを話す時間をもてるということは、とても貴重なことだと考える。
父と手をつないで家と幼稚園を往復したことが、Sakurakoにとって何かの思い出になるならば、そして、家族という形容することが難しいもののイメージを、心の中に持てたならば、よい1ヶ月だったといえるのではと確信している。